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鬱病からの脱却 体験談|実際に鬱だったかもしれない僕の5つの話【症状?編】

1.4 仕事の問題・悩み・相談

鬱病からの脱却|実際に鬱だったかもしれない僕の5つの話【症状編】

悩む人
悩む人

どうして?

どうして??

………どうして…???

(当時の僕)

自分の中に潜む悩みというものは、多分、同じ状況に陥った人にしか解決できないと思います。

いや、解決に繋がるかどうかはわかりません。ただ、同意を得るという意味では間違っていません。

なぜ、そんな事が言い切れるかと言えば、相談相手が誰であれ、相手に同じ経験が無ければ親身になる以前にその経験そのものを体感していないわけですから、『考え』はあったとしても『具体的な解決法』に至らないんですね。

簡単には『予想談・予想案』という参考程度に行き着きます。

最終的には自分が行動して様子や結果を眺め、自分自身で判断するしかないという事です。

こんにちは。すえです。

今考えれば…ではありますが、僕は鬱だったのかも知れません。20年以上の長い間。

『かも知れません』というのは実際に診断を受けたわけではなく、医師に『鬱』と言われたからではないという理由もありますが、厳密には当時の僕には『医者に行く』という頭の中の選択肢が存在せず、家族もバラバラだったため、そういった案を貰う機会も皆無だったんですね。

また、時代背景的に言えばまだ鬱病というものが一般的に深く認知されておらず、『鬱病発症=何だソレ?』くらいの反応でした。

なので会社の場においては

鬱病による業務能力の低迷=サボりの口実・やる気が無い・非社交的

というような判断に持ち込まれ易く、悩みを打ち明けたところで親身に受け取られる場面は非常に少ないものでした。

そんな時代での個人的な悩みの発生でしたので、鬱病が明るみに出てからも自分にそれが該当するといった考えが浮かぶ筈もなく、僕自身がある種の社会不適合者なんだと理解して今も生き続けるという結果論に至った次第です。

そんな僕の鬱原因は、出社時刻の遅れ…つまり、『遅刻』にありました。

この遅刻がきっかけで、僕は次第に自信を失い、やがて漠然とした未来への恐怖と現実からの逃避を常々考えるようになります。

1:遅刻から始まった人生への恐怖

『早起き』というものはもともと苦手でした。

人間はそれぞれが体内時計を有するとよく聞きますが、どうやら僕の場合はその体内時計が狂っているらしく、しかも生活のリズムに合わせて狂うようですね。重症です。

どのくらい重症かと言うと、これもまたよく聞く話ですが、

『休日に限って早起き(予定時間通り)出来る』
『重要な日だけはきちんと目が覚める』

と言った表現がありますが、僕の場合はこれすらも平然と寝過ごします。

厳密に言えば、『予定の時間に目を覚ます場合が多い』と表現すれば良いでしょうか?

出社時刻が午前の8時だとすれば、8時ぴったりに目を覚ますといった、なんとも迷惑な体内時計の持ち主なんです。仮に早く目を覚ましたとしても、7時50分とか…。

片道1時間、これまでの近い会社でもせいぜい20分。間に合う訳がありませんよね。当然、出発するには準備時間も加算されます。

そんな理由で週5~6日の勤務は当然ながら週5~6日の完全遅刻。

どうにか頑張って、または運良く起きられても週3回の遅刻は常習化していました。

今思えばの救いは1分2分の滑り込みに間に合わなかった遅刻ではなく、1時間以上の遅刻が相次いだため、周囲関係者が『単なる遅刻ではない』と認識し、いろいろと相談を買って出てきてくれた事でしょうか。

『家庭に問題があるのか?』
『何か副業しているのか? 体に良くないぞ』

といった感じです。

ただし、家庭問題という点ではそもそも僕の家庭は崩壊して久しいものでしたから、その時点では問題視しておらず(というか、もはや普通という錯覚)、
独身の上、遅刻ばかりの状況で副業なんてとんでもない話でしたので、遅刻に関する悩みはあってもそれ以外の生活においては問題と呼べる問題は無かったかに思え、
せっかく声を掛けて下さる相手に返って申し訳ない気持ちが高まりました。

その一方では心配されればされるほどに『起きなければ!』という決心と言うか再認識と言うか、そんな気持ちばかりが芽生えるわけですが、
現実とは残酷なもので、理想とは裏腹に毎朝目覚めて目覚まし時計を見る度に感じる絶望感…。

怒られるのではないか? 本音はどうなのか? 呆れられている?

普段から仲良く会話する人の心境を思い浮かべると、それだけで怖さとは異なるやるせなさが込み上げ、
それでもある意味の期待を裏切りたくないといった気持ちとの葛藤で、結局は自分のわだかまりを抱えた状態で出社したものでした。

何度も願いましたよ。『追突されないかな?』『突如、運転する車が大爆発しないかな?』と。

バカらしい話とは思うかも知れませんが、追い詰められるとそういった願いを本気で考えるものです。

もちろん、怪我などを望む話ではありません。単純に『誰でも納得せざるを得ない理由』が欲しかっただけなのです。

2:他人が簡単に可能とする自分の不可能の不思議

『この世の創作物は全て人が作り出した。そして自分自身も人間である。
専門分野の創作・開拓には専門知識が必要だが、それ以外の全ては同じ人間である以上、出来ない事は無い』

…といった考えは、僕の中にいつの間にか住み着いていた理念のようなものです。

『予定時刻に起きる』というものは技術的なものではなく、何かの専門的な分野でもなく、スポーツのような日々の鍛錬とも違い、一言に正解を言うなら『生活習慣による慣れ』と言えるでしょう。

なので、生活習慣を改善すれば僕にも出来る筈だと確信はしていました。

では、普通に朝起きられる人と比較して僕は何が不足しているのか?

といった考えに結び付き、『早起き』の為に個人の手が届きそうな可能性に着手しました。

当時の個人的な知識で実践可能な就寝と朝起きの方法はもちろん、知人・友人・会社の仲間から教えてもらった効果のある早起きの秘訣、書籍などを読む事で拾い上げた参考知識など、様々な方法を試しました。

ですが、早起きに慣れるよりも前に体が生活の変化に慣れてしまう方が早いらしく、数日間の効果を確認して喜こぶのも束の間、体が変化に対応してしまうようで、意識的に加えた生活リズムの変化がことごとく無視されてしまうようでした。

結局は一定期間の無遅刻(例えば1カ月間などの期間)の実現すら出来ない20年間が繰り返されることになります。

『みんなが普通にこなせる起床予定時間の起床が自分には出来ない』

という思いはいつの間にか漠然とした恐怖に繋がり、やがては『この先の一生を普通に生活できるのか?』といった思いに変化しました。

漠然とした恐怖は実際の未来の変化や様子を知る事が出来ないからこそ漠然としている訳であり、別に考える気が無くとも遅刻する度に

『この先大丈夫かなぁ? この状況で続けられるかなぁ? 消えちゃいたいなぁ…』

などと、気付けば仕事中の多くの時間でそんな事を考えるようになっていました。

※僕が早起き…というよりは遅刻しないための『起きる努力』に関する各実践を別ページにまとめましたので、どんな方法で無遅刻に意識したかを知りたい方は下記のURLにどうぞ。

【目指せ通常出社! 遅刻だらけ人生の早起き大作戦!!】へ

3:自分で発想したプレッシャーに自分が圧し潰される

目覚めて時計を確認すれば、その多くが『もう間に合わない時間』であり、これは見るだけで精神的疲労が一気に増しますね。
一言に言えば『苦痛』以外の何者でもないといった話です。

目覚まし音はきちんと予定通りの仕事を終え、確認時は静かに時を刻んでいる状態です。
時間を巻き戻せばきちんと目覚まし音がけたたましく鳴り響きます。電池切れでもありません。

あの1秒1秒の針の動きを見るたびに『時間よ戻れ!』と切に願い、それと同時に生きる希望的なものが削ぎ落される気さえしました。

情けなく、惨めです。世の中には『朝の起床』とは比べ物にならない大きな課題に苦しむ人がわんさかいる筈です。
どうして自分は『朝の起床』に思い悩んでいるのでしょう???

 

別段、会社においては高い地位に居たわけではありません。でも、このまま信用を失って悪い見本として生きるならば、いっその事、消えてしまった方が楽になるのでは?

そんな思いが次第に膨らみます。

遅刻に無縁な人からすれば、または人並みの遅刻経験者からすれば『バカじゃん?』といった反応をされそうでありますが、それは僕に言わせても理解できる反応です。

『たかだか遅刻で何を考えているんだ』

…と。

でも、こういった問題の連続で前向きに解消を考えれば考えるほどに真剣化し、それが出来ないならば…。という方向に向かい易いものだと個人的体験から断言できる話です。

その一方で不思議と冷静に考える自分も居るもので、『遅刻を悩むのであれば遅刻をしなければ良い』という、目で確認する必要もない解決法がある事は確信しています。

何度遅刻しても『遅刻しない方法』を模索する我が姿はある意味で勇敢にも思えましたが、せめてもっとカッコイイ悩みに向かいたいものだとも苦笑しました。
こうなると半分以上は諦めに近いものがあります。

何でもいいや。なるようになるだろう。それでダメならそれまでだ。

…でも、『それまで』って? 理由が『遅刻を苦に』…?

世の中、自分なんかよりも苦しむ人なんて沢山いるじゃん。どうして朝起きられないなんて理由で苦しむ必要がある?

これで消える選択を取るというならば、それこそいい笑いものだ。最悪だ。

という事で、自殺はほどほどに考え、心の片隅にあわよくば不運な事故との遭遇に本気で期待し、それでもアレコレ悩みながらも生き長らえる自分とはいったい何者だろう?

なんて自分でも意味不明な苦笑を混ぜつつも、毎日忍び寄る夜と迎える朝への恐怖を繰り返す日々の繰り返しでした。

 

毎日の就寝は『明日は起きる!』の意識。強烈な意識。

でも、その2分の1以上は目覚めて時計を確認し、表現する事も出来ない不思議な絶望感。

『今日、遅れます。寝坊しました…』

という電話連絡を入れるのさえ悩みに悩み抜く数十分間。

体調不良の嘘をつけばどれだけ気が休まるだろう? でも、体調不良の連絡を入れる時間としてはとっくの昔にアウト。『なんで始業前に電話出来ない!?』と返されるのが関の山。

なので、結局は正直に言います。

『寝過ごしました』

と。

『あはは、慌てなくていいよ、気を付けてね。みんなには言っておくから』

と、電話の向こうの反応はだいたい明るい。これが凄く安心し、同じ分だけ惨めなんですね。

4:死の可能性を待ち望む毎日

僕の場合、働く事は決して嫌な事ではありません。

自分ではあまり意識していませんが、なんだか発想力と器用さに恵まれているようで、社内に発生する問題事もそれなりに解消する事が出来ます。
…というか、そう評価されやすい傾向にあるようです。

そういった意味から社内全体とはいかなくとも大部分の関係者とは打ち解け合う事ができ、真面目な話からバカな話まで仕事を交えて苦の無い勤務時間は満たされます。

仕事をやり遂げて笑い、ミスして笑い飛ばし、怪我しても気にするなと笑い飛ばせました。

その一方で他人が進み悩む仕事を補助し、他人のミスを励まし、他人が怪我したとあらば掠り傷1つでも全力で救急箱を持って来たりもしました。

 

一説では人は自分の死期を感じると善人ぶる傾向にあるとか。

個人的解釈では『善人ぶる』ではなく、良い事をした印象を相手に植え付け、死後すぐに忘れられないような行動を意識的にではなく本能でするのかと思います。『忘れられる』という現実は悲しいですからね。…死んだ先の思いなんて分かりませんが。

まあ、そんな事を意識していたわけではありませんが、何故か僕は自分の犠牲よりも他人の犠牲が見過ごす事が出来ず、常に他人の笑顔を重視した行動をしていました。

そうする事で自分が必要である証拠を作り出そうとしていたのかも知れません。無意識的に。

 

そんな毎日の中、『死』を予感させる出来事に遭遇しました。

真似されて本当に死なれても困りますので詳細は伏せますが、あるものを飲み込んでしまったんですね。確認もせずに。…喉が渇いていたもので勢い良く…。

それで、ある程度飲んでいたら舌に違和感があり、目で確認して気付きました。

あれ…? これって…?

一般層にインターネットが普及していない時代でしたので、調べるには専門知識のある方を頼る他ありませんが、それが当時の自分にとって幸いでした。

噂が本当だったとしたら、これで終わる事が出来るかも。
…と。

自分から命を絶つ行為は何度考えてもアホの極みだと感じたため、何度も思い留まり、数える程度の行動はどうしてか全て別の人に見抜かれて未遂でした。

…が、今回ばかりは誤飲であり、事故であり、意識的な行動ではありません。

ぶっ飛んだ話に感じられるかも知れませんが、嬉しくて嬉しくて全部飲み干しました。間違えなんだから仕方がない。8割飲もうと全部飲もうともう手遅れ♪ あ~、やっちゃった☆

 

運転を終えて自宅に入る頃には眩暈が激しくなり、吐き気がひどいものでした。

でも、やはり『消えたい』といった気持ちが勝るようで吐き戻すといった考えは浮かばず、不思議と我慢という意識も芽生えず、妙に落ち着いていました。『ふぅ…終わったか…』みたいな?

普段なら布団に入り込んでから就寝までに約2時間もの間ゴロゴロ時間を要する筈が、すんなりと眠りに落ちていた記憶があります。

もう目覚める事は無いだろうという期待感もあったため、後日の目覚ましも掛けず、純粋な喜怒哀楽に埋もれた幼い時代の記憶を楽しみましたね。

 

そして翌日。

目が覚めた直後、僕の人生の中でも数少ない独り言はこうです。

『…生きてるし…。しかも遅刻してるし…』

死か生か、もはやどちらが自分にとっての本望かも理解出来ませんが、ひとまず起きてしまったのだから仕方がないと、いつものように寝坊の旨を伝える電話をし、8時始業の所をいつも通り11時近くに到着しました。

 

『なんだか今日は爽やかじゃない?』

駐車場から歩く途中で仲の良い同僚とすれ違い様にそんな事を言われましたが、何を言って返したかは覚えていません。

ですが、この時、僕は『生きている限り逃れられない遅刻』を感じ、居心地の良いこの会社に留まってはいけないとも感じました。

これだけよく接してくれる仲間たちの笑顔がやがて怒りに変化する可能性を考えると、どうしても楽しいと感じる時間帯で終止符を打ちたかったのです。

 

余談ですが、この日はめちゃめちゃ吐きました。と同時に、めちゃめちゃ下痢でした。

5:諦めの中に希望を見て生きる

ここでお話しているのは僕にとって社会人になってから1社目の会社という背景であり、これ以前に学生時代のアルバイト勤務が約7~8社ほどあります。

まあ、アルバイト時代の遅刻回数も散々でしたが、学生という立場にあって同じ悩むでも色々と自分に言い訳が出来たので気丈に振舞えた部分があったんですね。

学校があるんだから仕方がないじゃん。
学費さえ払えてればそれでいいや。
家族がいないんだもん。
起こしてくれる人が居ないんだもん。
妹の面倒だって見るしかないし。
友人や先生、職場の人に起こしてもらうのも変な話だし。
その前に電話止められてるし。

…などなど、自分の起きれなさに対する言い訳というよりも、実際の境遇がそれであり、その中でいつの間にか育っていた『自分で何とかする・今あるもので何とかしよう』という思いが強かったため、人に頼るのが恥とは感じなくとも『迷惑』だと常々思っていたんですね。

だから人を頼る場合は本当に自分が何も知らない分野の入口のみであり、その先はどーにかこーにかして強引にでも知識開拓…みたいな展開になってしまったのです。

 

そんな理由で『誰にでも出来る時間通りの起床』は個人的になかなか聞き出そうとする事が出来ず、『起きるという自然現象』に対して深く悩み過ぎていた。…とは、とある恩師のうちの1人の助言です。

彼は言いました。

『お前は真剣に悩み過ぎるから逆効果になるんじゃないの? もっと気楽に考えろよ。疲れるじゃん』

この言葉は実に痛感であり、沁みました。

…沁みましたが、性格はある種の病気か、それでも以後20年近く、まだまだ同じ問題に悩む自分がいるという訳ですね。

でも、今でも思い出す自分にとっての感激の言葉というか、人生の言葉と言うか、相変わらず繰り返す遅刻の度に思い出しては前向きな姿勢を保つ事を維持してくれる、それはそれは心強い一言でした。

今もこうしてこの言葉が、いつもはへらへらとしている筈の、珍しいあの人の真顔と共に生きているわけです。

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鬱だったかもしれないまとめ 最終的には自分の甘え。…と言うよりは『強がり』

教えられましたね。彼には。

そう考えると、歩んだ人生の中には実は非常に強力な一言がいくつか存在していた事に気付かされるものであり、いかに自分が聞く耳を持たない頑固に徹していたかという事にも気付かされます。

でも、結局は真剣に誰かに悩みを打ち明けた事はありませんでした。自分の家族にさえも(奥さんも結構な頻度で寝過ごす)。

こうして僕自身の過去を振り返ると、『どうにかなる・出来る筈』というのは根拠のない強がりであって、同時に自分に対する甘えだったのかも知れませんね。

時間が解決してくれるさ…。という、的外れなキザな歩み方をしたという事です。

もっともっと本音で頼るべき人に『どうしよう?』と相談すれば、少なくとも20年以上もの長い間、『遅刻』というテーマに縛られずに済んだかも知れませんし、
『遅刻』という悩みに縛られ自分自身を見失うような考えを持つ事も無かったかも知れないというのに…。

 

まあ、過ぎた時間を振り返ってあーだこーだ考えても仕方が無いので、今の僕は確実に減った遅刻を更に減らす事に努め、その上で昔みたいに真剣に考え過ぎないように自分を気遣う方向で歩き続けたいと考えられるようになりました。

 

こんな話をあなたにしてどうなるかという話でもありませんが、唯一言いたい事は、

鬱であれ何であれ、自分にとって障害と感じる物事が発生し、それが悩みに転じるのであれば、手遅れにならない段階で誰かを頼りなさい。

という事ですね。

さもなければ展開次第では(僕のように)最悪のケースを待ち望む羽目になるかも知れませんし、1つの問題解消のために(僕のように)数十年という歳月を要するかも知れないという話です。

 

誰にでも苦は訪れますが、当然ながらあなたにも苦は訪れます。

そしてその苦の解消までに要する時間は人それぞれです。

行動すればするほどに早く苦は解消する方向に向かいますが、自分自身でどうにかしようと考えると非常に長い年月を要する場合もあるのです。

僕の遅刻癖は15歳のアルバイト時代からの付き合いですので、今現在の44歳を考えると実に29年間の付き合いとなっています。(計算して自分でびっくり!)

当時の僕は惨め過ぎてたくさん転職しましたよ。

そんな29年間の末に達成できたのが、この記事を書いている時点で勤続5年目の会社での『半年間無遅刻』であり、まだ年単位の実績は皆無なんですね。

もはや遅刻という名の後遺症です。…まあ、今回の転職ばかりは履歴書(職務経歴書+年齢)的に後が無い気がしたので、入社後早期段階で社内全体に

『朝は苦手・遅刻だらけです』

と、先手を打ちましたがね☆(笑顔で言うが、これはこれで惨め)

 

そんなわけで、結局のところは僕が鬱だったかどうかは自分自身で不明な部分がありますが、一時は世の中が(というよりも自分自身が)どうなっても構わないという心境に追い込まれ、むしろそれが可能ならばすぐにでもそうなりたいと願った時期があったという事です。

それで今が幸せか? と尋ねられれば、『そんな事は死ぬ間際の最終判断だ!』としか返しようがありませんが、遅刻に苛まされた過去に比べればかなり気楽にはなりました。

 

繰り返しますが、あなたが鬱であれ何であれ、とにかく抱え込むのはやめましょう。

体に毒とはよく言いますが、僕の言葉に言わせれば『時間の無駄』でしかありません。毒とかそういった問題以前の問題です。無駄です。

悩みを解消したいのであれば、とにかく本音をさらしましょう。

もちろん、信頼できる相手に。聞いてもらいたい相手に。

信頼に足る人物が居ないのであれば、専門の窓口を叩きましょう。見ず知らずの相手の方が返って好都合かも知れません。気を遣う必要が無いわけですからね。

とにかく、参考程度の言葉でもいいから拾い集めましょう。

それだけでほのかな光は見えてくるものなのです。

人に正直になれなかった僕が言えた口ではありませんがね。

長文失礼しました。お疲れ様でした。

 

すえ

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さいごに

このページでは個人的な遅刻の悩みから始まった鬱症状(と思われる内容)を書き綴っていきますので、あなたが鬱病と診断されたり、そうなのかな? と思われる場合には、このページに出てくる『遅刻』や、それに関係するワードをあなたの抱える問題や悩みに置き換えて読んでみると、僕の気持ちが判ると同時に自分でも気付けないあなた自身の現状が理解出来るかも知れません。

今更ですかね?

『2回読め』と言いたいだけです。

今があなたにとっての悩める時であるならば、悩むよりも前に今するべき事を、いま出来そうな事をしてみましょう。

解決策は案外その辺に転がっているものです。自分が大切だからこそ、それに気付けないんです。

僕のように無駄な時間を費やさない為にも、です。

 

長々と読んで頂きありがとうございます。本当にお疲れさまでした。

 

すえ

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